右の眼窩

薄暗くて狭いところ

日記 五月二十一日〜二十五日

五月二十一日
 腹が痛い。腰も痛い。ダルマ落としよろしくこの周りをスコーン! と抜いてしまいたい。ばーかばーか。病気でも異常でもなく毎月必ず腹と腰が痛くなるって人体の欠陥だろ。なんで人類数万年の歴史の中で克服できなかったんだこんなもん。怠慢だ怠慢。人間は進化をやめたのか。ばかめ。
 
五月二十二日
 ちょっとしたブレイクスルーが発生した。すこし前に「上司の指示がわからない」と嘆いていた件。あれたぶん語の揺れの話で、私は「設計書」というものを「コーディングに用いるもの」と認識していたけれど、上司にとっては「お客様に品質を担保するためのもの」だったんだと思う。全然真逆の方向を向いてた。そりゃあ何を言われているかわからないはずだ。でも設計書って現場のためのものじゃない? お客様に品質を担保するのは仕様書じゃない?(語の定義の話)(そもそも仕様と設計の弁別なんて無いのかもしれない)
 自分がどういう意味でその語を運用しているかってなかなか自覚的になれないもんで難しいのう。まあ次に彼と仕事するときにはもうちょっとマシな仕事ができるだろう……なんで一方的にすり合わせをしてなきゃならないんだろう……(しゃべらないからです)
 
五月二十三日
 なんだか無限に疲れている。摩耗しているというか。待ちのタスクが多いからなんだろうなたぶん。息を吸って吐く、それだけでどんどん疲れて、頭が回らなくなってくる。急に「あ、無理」と思う頻度が上がっている。体力が落ちたのか、何かの栄養が足りていないのか、単に今日ちょっと天気が悪いからなのか。太陽光発電ロボなので天気が悪いと割とすぐにダウンする。
 
五月二十四日
 日大アメフト部の件。どちらが正しいとも言わない、知らないけど、言葉足らずだったというならその部分についてどう解釈されるかって日頃の言動に依存する部分で、その時のその言葉だけが悪いなんてことはありえない。例えば私が何かしらの肉を調理する旨のことをツイッターに書くと一部から「人肉ではないか」という種類の解釈が飛んで来るけども、それも完璧に日頃の行いが悪い。かつて足掛け三日に渡ってカニバリズムについて語るなどした私が悪い。話は変わりますが秋の東京文フリでカニバリズム合同に参加します。よろしくお願いします。
 
五月二十五日
 命の価値は全て同じみたいな話があるんだけどあれってどうなんだろうか。例えば鶏肉は牛肉より安い。一つの命から取れる肉の量は牛より鶏の方が明らかに少ないにも関わらず。たぶん家畜の価値というのは工業製品と同じ、コストでの計算なんだろうと思う。じゃあジビエは? とか考えるとどんどん深みである。カニバリズム小説を書きながら「カテゴリ的に人間はジビエだなあ」などと考える。命パフォーマンスとしては牛の方がいい。クジラはもっといい。最悪はたぶん魚卵系だろう。
 世界に存在する総数とか一個体あたりの出生数なんかを考えると魚卵の価値は低いことになるが、たぶんそれも価値の物差しが違うんだろう。そもそもこの文脈においては価値の単位としてお金を用いること自体がナンセンスなのだけど。価値とは?