右の眼窩

薄暗くて狭いところ

日記 2019年10月25日

 気分が落ち込んで落ち込んでどうしようもない頭でぐるぐる考えたら「私に必要なのは認知療法では?」というところに辿り着いたのでそれっぽい書籍をがさっと買ってみました。この行動がもう典型的にだめっぽくてだめ。でも人に頼れないんだから自分でやるしかない。就活のときすら自己啓発本なんて買わなかったのに……。
 中学くらいで斎藤茂太さん絡みの本を読んだことはある、合わなかった。高校時代は心理学方面の本も読んだ、興味深くはあった。「心理学」という言葉についての認識が間違っていることがわかった。臨床心理学方面とか児童心理学方面も学びたいな〜とか思ってたんだけど、文系大学に入れる頭はなかった。理数の方が得意だったし当時。英語の点数が低すぎてセンター絶望みたいな状態だったから、理系大なら入れたかっていうとそれも微妙なんだけど。

 まず読んでみたのが「もう一度自分らしさと出会う10日間」という本。

 なぜこれを最初にしたかって、一番薄かったから。高いな〜専門書だからこんなもんかな〜とか思って買ったあと二冊が想像の三倍くらい分厚くて引いた。高い原因そっちかよ。通販で買うとこういう事故が時々発生します。
 読んでみた感想。っていうか、読み始めた感想。一章時点でもう合わない。
「あなたはこう感じているのではないでしょうか」「あなたはきっとこう考えています」みたいなのが全っっっっっっっ然合わない。唯一合ってたのは「本に書き込みたくない」という一点だけ。本に書き込みたくはない。ノートじゃないんだから。このへんは電書フォーマット作るのがいいのかな……。書き込める電書。マークダウンかTeXあたりからHTMLでも吐いてチェックボックスとかラジオボタンの変更は差分だけ逐次端末に保存して……(ブツブツ
 閑話休題。全然そんなこと考えてないんだけどなー何だろうな読みづらいなーと思ってたら「続きを読む前に目標を立ててね! この本を読む過程でどういう自分になりたいか、願望を最低三つは書こうね!」みたいなのが入ってきて、え? 願望?

 私はタイトルの「もう一度自分らしさと出会う」というところから、この本に自我の再発見みたいなものを期待していて、つまり「願望を探し出す」みたいな機能を期待していて、それがここで折られた。っていうか願望がわかってるならそれに向かって努力すればいいだけじゃん? と思って、違和感がマックスになってしまった。
 私はそんなに自意識過剰ではない。私ばかりが不幸だとは思っていないし、飛び抜けて無能だとも思っていない。周りが悪意を持っているとも思わない。世の中の大半は善人でできていて、私は十人並みに恵まれていて、有能ではないにしろ無能でもない。というか自意識を折られて折られてぶちのめされてろくな願望すら持てなくなった結果が今の私だ。願望を持つことにすら客観的な正しさを自問して自分の首を絞めてきたのが私だ。ストーリーも目標も無ければ敵もいないゲームに放り込まれた気分で虚無ってるのが私だ。
 この本が想定している読者は「何かしらの具体的な願望はあり」「自意識過剰で」「被害感情が強い」人間なんだろうか。そりゃ生きにくかろうと思うけど、そもそもそこまで自我が肥大してりゃ「自分らしさ」なんて探すまでもないじゃないか。その膨れ上がった自意識、卑屈、被害妄想にどっぷり浸かったそれこそが「自分らしさ」そのものでしょうに何を言ってるのか。 それとも世の中そんなもんなん? 浅瀬か?

 いやしかしどっちかっていうと私はそうなりたいのかもしれない。何かしらの具体的な願望を持って、自意識過剰で、被害感情が強い人間になりたいのかもしれない。でもそれって自分の問題をアンコントローラブルなところに押し出す行動なわけで、行き過ぎればやっぱり毒だ。全部自分のせいも良くない、全部他人のせいも良くない。とはいえ正確な客観視なんてできっこないのでどこかで線引きはしないといけない。結局は社会性の無さに収斂していかないかこれ?

 私が苦しいのは「(私が想像する)他者の(あるかどうかもわからない)期待に答えられない(と感じる)」からであって、そんなもんはやっぱりアンコントローラブルなので考えるだけ無駄なんだけど、勝手に想像してむくむく苦しくなって自滅してしまう。そんでその原因はたぶん影に日向に「君はわかっていない」と言われて生きてきたことであって。「言ってくれなきゃわかるわけないじゃん!」と「どうもみんなは言われなくてもわかるらしい」の板挟みになって観察と推測に全振りして生きてきたせいであって。
 うーんなんかこの前と同じ話になっちゃうな……なんか世の中の人々は私以上の情報をどこかから得てきているように見えるんだ……私に見えない何かがみんなには見えているみたいな……でもこれってそれこそ一人ではどうしようもないのでは……
 ぶっちゃけ「言ってくれなきゃわかるわけない」で立ち止まってた方がよほどメンタルに良かったのではという気がする。「みんなはわかっている」「私だけがわからず、周りに迷惑をかけている」みたいなところに思考を進ませず、「言ってくれなきゃわかるわけない! 教えてください!」みたいなのを全力でぶん回せていたら私はもうちょっとマシだったんだろうか……。でも今から「言ってくれなきゃわかるわけない」に立ち戻るためにはちょっと遅い気がするんだよな。アラサーやぞ。そこでゴネるアラサー大丈夫か? いやアラサーでも言質取りたいとかでゴネることはあるけど。
「言ってくれなきゃわかるわけ……待ってちょっと調べてみる……」みたいなところに言ってテンポが遅れるこの感じよ。誠実さのピントがズレてるんじゃないか。

 これさてはタイトルに釣られたな……? と思ったものの、じゃあその「具体的な願望があり」「自意識過剰で」「被害感情が強い」人間に対してどういうプロセスを通して何を見つけさせることで「自分らしさと出会った」と感じさせるのかが気になるので先を読みます。逆説的に正しい願望みたいなのが見つかるかもしれないし。

別件。
会社の上司がふわっとした日本語でふわっとした指示を飛ばしてくるので反射的に殴りそうになる。コードレビューの指摘が曖昧すぎる。気持ち悪いって何だ。中黒を三点リーダの代わりにするのはまあギリギリ許すとしても、句点を連続させて平気でいる人間にとやかく言われる筋合いは無いぞ。