右の眼窩

薄暗くて狭いところ

みんな、に含まれるもの

 みんな仲良く、という考え方こそがいじめを生むのだけど、これはわからない人には本当にわからないことなのだと思う。
 本当は、仲間に入れるのは、一緒にいて楽しい人だけだ。そもそもそれが一番健全な形。でもここに「みんななかよくしましょう」という名目で合わない人間を入れるとどうなるか。別々のグループに属するという逃げ道を塞いだらどうなるか。
 みんなが楽しむためのおもちゃにされるのである。
 無論、第三者から見ても明確ないじめに発展することばかりではない。少々のいじり、馬鹿にし、こけにし、楽しいという圧力で当事者を黙らせる。別のグループに属するという選択肢はその当事者にすら無い。周囲(それは概ねいじっている側および「みんななかよくしましょう」と主張する第三者で構成される)もそれをよしとするため、低温やけどのように重い傷を追うのである。
 客観的にどういう状態が好ましいかくらい子供にだってわかる。でもその「好ましい」は自分の価値観ではなく社会の、本当は社会全体よりもっと狭いのだけど子供にとっての社会のそれである。狭い社会で「好ましい」とされる振る舞いだけを身に着けて褒められないまでも怒られないような育ち方をした子供はすかすかになる。育ち切る頃には全部搾取されてしまって、ヘチマのスポンジみたいになっている。心の肉の部分が腐って溶け落ちて、それで穴が空いてしまうのである。誰もその穴の責任なんて取ってくれない。そうして彼らの狭い社会はあっという間にはしごを外す。そのくらい自分で判断しろ。あるいはもっと優しく、もう自分の好きにしていいのよ、と。
 ヘチマのスポンジはある程度まで水を吸う。けれどその殆どを長く保持していられない。あっという間に乾く。そうして次を求める。もっともっと、もっと水を。乾く乾く痛いつらいさみしいくるしい。それを別の誰かが依存だの搾取だのと呼ぶ。そうして、彼らであるところの私たちはいつの間にか加害者にすらなっている。