右の眼窩

薄暗くて狭いところ

日記 五月二十八日、二十九日

五月二十八日
「食べ物を粗末にするな」と言うときの食べ物の範囲について考え込んでいた。例えば庭の雑草を引っこ抜いて捨てるのは全然OKだけど田んぼの稲を引っこ抜いて捨てたらだめなんだと思う。たぶん自分ちの田んぼから引っこ抜いて捨てても怒られが発生するんじゃないか。でも取れすぎたキャベツは値下がりするからとか傷のついたりんごは売れないからとか、もっと微妙なとこだとたんぽぽつくし菜の花のびるとかの食べられる雑草みたいなカテゴリはどうなるんだろうとか。あと逆方向の話だとカビの生えたパンとか。どこからどこまでを食べ物と判定するのかがよくわかっていない。「食べても平気なもの」ではなさそう。たべものをそまつにするな。難しいな。もったいないという倫理。生き物は食べ物じゃないけど精肉されちゃったら食べ物判定になる。伝染病に罹った家畜を殺したとして、たぶんそれは「食べ物を粗末にするな」には引っかかってこない。食べ物にしかなりえない命だけど。あるいは私が理解していないのは「粗末にする」という挙動の方だろうか。難しい、難しいぞ人間……
 あんまり関係ない話に飛ぶんだけど私はうなぎはまず食感が好きじゃないから食べないんだけどうなぎが滅んだとて何が起きるだろうかとは思っている。クジラが絶滅したらたぶん、鯨骨生物群集とか、あのへんにダメージがある。うなぎ。うなぎが滅んだら何だというのだと思って「うなぎが滅んだらどうなる」と検索してみたら「別の何かをうなぎと呼んで販売する」などの話が出てきて規模が小さい。人間のことしか見てない。どうでもいい。生物史なんてほとんど滅びの歴史であるのになんというか、傲慢なるかな人間。環境の変化に適応する気がないというか、環境保全が最良だと思っているのか。
 
五月二十九日
 私が算数を好きだったのは、もしかしたら、母が一緒に考えてくれたというただそれだけのことだったのかもしれない。私は昔から公式を覚えるのが苦手だった。そこで算数を嫌いにならずに済んだのは、母が一緒に考えてくれたからだ。公式はわからないけど、別のアプローチから答えは出せる。その積み重ねが、私に「算数が得意」だという感覚を生んだ。高校生にもなると公式なしでは算出しようのない問題もあって(三角関数とか)、それはからっきしだった。数式だけであらわせるものは片っ端から証明し、手の中でこねくり回して理解した。そうしなければ記号が並んだだけの公式なんて覚えられなかったのだ。それでも私の中に「数学が苦手」という感覚は生まれなかった。せいぜい「三角関数は苦手」と思っただけだった。
 なぜそのようなことを思い出したかって、仕事がどんどんしんどくなるからだ。C言語が好きだった。素のJavaPHPが好きだった。それらは私の手足みたいなもので、ただ書けば動くものだった。最近の便利フレームワークは書かなくても動く。公式を使えば答えが出る、というふうに、かんたんに。覚えられない。困る。複雑なロジックが隠蔽されて簡単になればなるほど、私には馴染まなくなってくる。手の中でこねくり回す時間も貰えないことが多い。コンパイラが違いすぎる。