右の眼窩

薄暗くて狭いところ

サルベージ・2

 曰く。

 誰にでも夢を見る自由はある。
 理想の自分。理想の快楽。理想の未来。
 理想の他人。理想の恋人。理想の別離。
 誰にでも安い夢を見る自由はある。
 だが、その大半は悪夢だ。

 理想の自分というものについて夢想する時、そこに自分は存在しない。生まれてこの方泣いたことがないような、生まれてこの方一度も裏切られていないような、自分も他人も頭の天辺までどっぷりと信用しきった自分がそこに現れる。その「わたし」はいとも簡単に他人を信用し、他人からの信用を獲得する。たいていの人は自分を信用しない人間を信用しない。
 理想の他人というものについて夢想する時、そこに現実は介在しない。誰も彼もが伝えあうために言葉を尽くし、ほんのちょっとの善良さと平凡と幸福で作られたような形をしている。彼らは私の話を聞いてくれて、わからないところは保留にしてくれて、お互いをきちんと他人に位置付けることができる。そこに支配は無く、隷属も無い。
 理想の未来というものについて夢想する時、そこに自分は存在しない。爪先から頭までを他者への信頼に浸し安心している誰か。彼女は人からの愛を適切に受け取り、同じように適切に誰かに愛を与えることができる。必要な人に、必要な分だけ、まるでわかっているかのように。

 悪い夢だとわかっている。けれど夢や理想を目標にせずにどうやって生きていけばいいんだろう。
 現実を歪めもせずにどうして耐えられるだろう。
 愛や善意が毒になりえないなんて、本当はただのお伽話だ。
 毒になりえないものだったらどんなによかっただろう。自分が満足するまで際限なく注いでいいならどんなによかっただろう。そしてそれを相手が喜んで受け取ってくれたなら、どんなによかっただろう。