日記 2019年10月28日
小説で無声映画てきな効果を出せないかと捏ねた文章が以下です。
興梠はもともと口数が多いタイプの人間ではなかった。 当人曰く「最低限は話してる」とのことだったが、特に私といるときは言葉少なで、たまたま他の誰かと話しているのを見ると「そんな声だったか?」と思っていたくらいだった。特に声変わりのあとは、いつも興梠の声に首を傾げていた。 私と興梠は幼馴染で、誰よりも付き合いが長かった。そのために、阿吽というか、ツーカーというか、言わなくてもわかる文脈みたいなものが出来上がっていて、学生の自分には周囲から腹話術師とその人形のようだと言われたことすらあった。興梠の傍に立ち、裏声で人形の真似事をしてやったら殴られた。興梠が息を詰まらせて笑うのを見たのは、後にも先にもあれ一回だったように思う。
大学入学時に「安上がりだから」と始めたルームシェアは、せいぜいが四年間だろうという当時の想定からは外れて、今も続いている。そろそろ十年にもなるだろうか。 家の中のことは私が、外のことは興梠が行う。具体的には掃除と料理と洗濯を私が、買い物、ゴミ出し、郵便局や銀行での手続きなどを興梠が行っている。少なくとも私にとっては心地良い生活だ。 冷蔵庫の中の、興梠が昨日買ってきた食材を眺めて、どうやらカレーが食べたいらしいことを悟る。肉にカレールー、福神漬、律儀にマカロニサラダの材料まである。 大抵の場合、夕飯は夕方になってから作り始めれば興梠の帰宅に間に合う。だがときどきこうして調理に時間がかかるリクエストが入るので、午前中のうちに一度は冷蔵庫を確認するのが習慣だった。 食洗機と洗濯機を回して仕事をし、洗濯を干しがてら部屋の掃除をし、昨日の余り物で適当に昼食を済ませ、コーヒーを淹れて仕事に戻る。一時間に一回は立ち上がってストレッチをし、水を飲む。 肉と玉ねぎを炒める横で人参とじゃがいもを茹でる。あらかた火が通ったらじゃがいもと人参の一部をサラダ用に救出し、鍋に玉ねぎと肉、カレールーを合わせて、真空保温器に放り込む。日を使わずに煮込めるすぐれものだ。焦げないし、燃えない。お米を研いで水に浸し、炊飯を予約しておく。茹でたマカロニと卵、じゃがいもと人参をからしマヨネーズで適当に和えて冷やしておく。また仕事に戻る。
興梠はよく食べる。お皿にカレーを山にして持ってきて、スプーンで掘りながらざくざくと平らげていく。その食べっぷりは清々しく、見ているこちらが満腹になってくる。一度カレーがなくなり、興梠は余った白米に追加カレーをかけに台所に行って、また戻ってきてもりもりと食べた。その上でマカロニサラダを食べ、ビールまで飲んだ。あの体積が人体のどこに収まるのだろうと思う。
オチが見つかったら続きを書くことがあるかもしれない(こういうのは書かない可能性の方が高い
日記 2019年10月26日
思考は繰り返す。
生きているから死にたい、というのが、そういえば私の原点だった。
生きているから死ぬ。私も、私の大切な人も、絶対に死ぬ。それがどうしようもなく怖い。怯えて生きるのに疲れたから死にたい。死ぬのが怖いから死んで楽になりたい。どうしようもないことだからと受け入れることがどうしてもできない。
自分が死ぬのはまだいい。怖いけど、まだいい。大切な人が死ぬのは嫌だ。受け入れられるわけがない。生き続ける限り、大切な人を喪う確率は上がっていく。受け入れられない。それが来るより先に死にたい。一刻も早く死ななくては、明日も私の大切な人が生きていてくれる保証など無い。
私が感じているのは不安ではない。罪悪感でも、不満でも、怒りでも、落胆でもない。恐怖だ。考えようでこの恐怖は消えない。受け入れられない。マインドフルネスも気の持ちようも役に立たない。
私の世界は未だ不安定なまま、眠ることに怯え別れに怯え、一秒ごとに疲弊していく。
割と本気で、私に必要なのは薬でも認知療法でもなく宗教では? と思う。死後の世界。
ただそれを信じることにすると、数年前に亡くなった愛犬が可哀想なのでどうも信じる気になれない。あんなに臆病だったのだ、死後の世界があったとしたって、知っている人などひとりもいないで、周りの色々なものにひとりで怯えているに違いないから。
日記 2019年10月25日
気分が落ち込んで落ち込んでどうしようもない頭でぐるぐる考えたら「私に必要なのは認知療法では?」というところに辿り着いたのでそれっぽい書籍をがさっと買ってみました。この行動がもう典型的にだめっぽくてだめ。でも人に頼れないんだから自分でやるしかない。就活のときすら自己啓発本なんて買わなかったのに……。
中学くらいで斎藤茂太さん絡みの本を読んだことはある、合わなかった。高校時代は心理学方面の本も読んだ、興味深くはあった。「心理学」という言葉についての認識が間違っていることがわかった。臨床心理学方面とか児童心理学方面も学びたいな〜とか思ってたんだけど、文系大学に入れる頭はなかった。理数の方が得意だったし当時。英語の点数が低すぎてセンター絶望みたいな状態だったから、理系大なら入れたかっていうとそれも微妙なんだけど。
まず読んでみたのが「もう一度自分らしさと出会う10日間」という本。
なぜこれを最初にしたかって、一番薄かったから。高いな〜専門書だからこんなもんかな〜とか思って買ったあと二冊が想像の三倍くらい分厚くて引いた。高い原因そっちかよ。通販で買うとこういう事故が時々発生します。
読んでみた感想。っていうか、読み始めた感想。一章時点でもう合わない。
「あなたはこう感じているのではないでしょうか」「あなたはきっとこう考えています」みたいなのが全っっっっっっっ然合わない。唯一合ってたのは「本に書き込みたくない」という一点だけ。本に書き込みたくはない。ノートじゃないんだから。このへんは電書フォーマット作るのがいいのかな……。書き込める電書。マークダウンかTeXあたりからHTMLでも吐いてチェックボックスとかラジオボタンの変更は差分だけ逐次端末に保存して……(ブツブツ
閑話休題。全然そんなこと考えてないんだけどなー何だろうな読みづらいなーと思ってたら「続きを読む前に目標を立ててね! この本を読む過程でどういう自分になりたいか、願望を最低三つは書こうね!」みたいなのが入ってきて、え? 願望?
私はタイトルの「もう一度自分らしさと出会う」というところから、この本に自我の再発見みたいなものを期待していて、つまり「願望を探し出す」みたいな機能を期待していて、それがここで折られた。っていうか願望がわかってるならそれに向かって努力すればいいだけじゃん? と思って、違和感がマックスになってしまった。
私はそんなに自意識過剰ではない。私ばかりが不幸だとは思っていないし、飛び抜けて無能だとも思っていない。周りが悪意を持っているとも思わない。世の中の大半は善人でできていて、私は十人並みに恵まれていて、有能ではないにしろ無能でもない。というか自意識を折られて折られてぶちのめされてろくな願望すら持てなくなった結果が今の私だ。願望を持つことにすら客観的な正しさを自問して自分の首を絞めてきたのが私だ。ストーリーも目標も無ければ敵もいないゲームに放り込まれた気分で虚無ってるのが私だ。
この本が想定している読者は「何かしらの具体的な願望はあり」「自意識過剰で」「被害感情が強い」人間なんだろうか。そりゃ生きにくかろうと思うけど、そもそもそこまで自我が肥大してりゃ「自分らしさ」なんて探すまでもないじゃないか。その膨れ上がった自意識、卑屈、被害妄想にどっぷり浸かったそれこそが「自分らしさ」そのものでしょうに何を言ってるのか。 それとも世の中そんなもんなん? 浅瀬か?
いやしかしどっちかっていうと私はそうなりたいのかもしれない。何かしらの具体的な願望を持って、自意識過剰で、被害感情が強い人間になりたいのかもしれない。でもそれって自分の問題をアンコントローラブルなところに押し出す行動なわけで、行き過ぎればやっぱり毒だ。全部自分のせいも良くない、全部他人のせいも良くない。とはいえ正確な客観視なんてできっこないのでどこかで線引きはしないといけない。結局は社会性の無さに収斂していかないかこれ?
私が苦しいのは「(私が想像する)他者の(あるかどうかもわからない)期待に答えられない(と感じる)」からであって、そんなもんはやっぱりアンコントローラブルなので考えるだけ無駄なんだけど、勝手に想像してむくむく苦しくなって自滅してしまう。そんでその原因はたぶん影に日向に「君はわかっていない」と言われて生きてきたことであって。「言ってくれなきゃわかるわけないじゃん!」と「どうもみんなは言われなくてもわかるらしい」の板挟みになって観察と推測に全振りして生きてきたせいであって。
うーんなんかこの前と同じ話になっちゃうな……なんか世の中の人々は私以上の情報をどこかから得てきているように見えるんだ……私に見えない何かがみんなには見えているみたいな……でもこれってそれこそ一人ではどうしようもないのでは……
ぶっちゃけ「言ってくれなきゃわかるわけない」で立ち止まってた方がよほどメンタルに良かったのではという気がする。「みんなはわかっている」「私だけがわからず、周りに迷惑をかけている」みたいなところに思考を進ませず、「言ってくれなきゃわかるわけない! 教えてください!」みたいなのを全力でぶん回せていたら私はもうちょっとマシだったんだろうか……。でも今から「言ってくれなきゃわかるわけない」に立ち戻るためにはちょっと遅い気がするんだよな。アラサーやぞ。そこでゴネるアラサー大丈夫か? いやアラサーでも言質取りたいとかでゴネることはあるけど。
「言ってくれなきゃわかるわけ……待ってちょっと調べてみる……」みたいなところに言ってテンポが遅れるこの感じよ。誠実さのピントがズレてるんじゃないか。
これさてはタイトルに釣られたな……? と思ったものの、じゃあその「具体的な願望があり」「自意識過剰で」「被害感情が強い」人間に対してどういうプロセスを通して何を見つけさせることで「自分らしさと出会った」と感じさせるのかが気になるので先を読みます。逆説的に正しい願望みたいなのが見つかるかもしれないし。
別件。
会社の上司がふわっとした日本語でふわっとした指示を飛ばしてくるので反射的に殴りそうになる。コードレビューの指摘が曖昧すぎる。気持ち悪いって何だ。中黒を三点リーダの代わりにするのはまあギリギリ許すとしても、句点を連続させて平気でいる人間にとやかく言われる筋合いは無いぞ。
日記 2019年10月24日
友人がいいよと言っていたのでストレングスファインダーというも
「私は一人でいるのが好きである」「
内省「考え事好きだよね」
ぼく「はい」
収集心「もの集めるの好きだよね」
ぼく「うん……? そうか? でもアレ別にコレクション的な意味合いは無いよ?(
収集心「知識とか」
ぼく「あっはい」
回復思考「ものを直すのが好きだよね」
ぼく「そうかな」
回復思考「ものが本来の機能を発揮してないの嫌でしょ」
ぼく「そうだな」
原点思考「原因を知ろうとするよね」
ぼく「デバッグかな?」
原点思考「原因がわからないとイライラするでしょ?」
ぼく「デバッグだな……」
学習欲「勉強好きだよね」
ぼく「似たようなこと内省と収集心でも言われたな」
なんか結果だけ見ると知識欲おばけみたいに見えるんだけど知識欲
一人で本を読んだり考え込んでる時間が幸せで、
レポート「あなたは考えることが好きです。あなたは知りたがり屋です。あなたは学ぶことが大好きです」
ぼく「みっつほぼ同じこと言われてるんじゃが」
本「
ぼく「はい」
本「プロジェクトで計画を建てる前に、過去のプロジェクトについても皆に知ってもらいましょう。『過去から学ばないものは、同じことを繰り返す運命にある』ことを理解してもらいましょう」
ぼく「簡単に言うけどさあ!!!!」
本「挑発的な質問はあなたと同じく討論を楽しめる人に向けるようにしてください」
ぼく「はい……ごめんなさい……」
考えて結論が出ると満足するので人に発信しようとかめったに思わないしタラレバをこね回して遊ぶのは皆楽しいと思ってるし上司がこちらの警告を聞いてくれるとは思っていないので悔い改めようねという感じの結果でした。
いや上司に警告もしてるんだよ……割と……聞いてもらえないけど……体力と根性とポジティブ精神だけの人間が上に行くのほんと嫌……
ポジティブな人、一人勝手に暴走した挙げ句周りを巻き込んで思いっきりコケても周りに罪をなすりつけて「お互い様!誰も悪くない!」という方向に話を捻じ曲げるので嫌い。
あとは弁が立つようになれば私もそこそこ戦えるかなと思うんですけど、何しろしゃべる速度で考えるのが苦手なもんでうまく喋れないので厳しい。相手の話を最後まで聞いてから言い返そうかなと思ってると話終わった相手が満足してどっか行っちゃったり。黙って聞いてたら「リアクション無いけど聞いてる?」って言われたこともあったな。そういう人に限ってこちらの話を最後まで聞かず早とちりで言い返してくる……めんどい、人間は無理
日記 2019年10月21日
自己評価が低い人間向けに「ハードルを下げて成功体験を積む」というハックがありますが、「ハードルを下げた」という認識によってマイナス判定が発生してしまい成功体験が積み上がらないタイプの人間もいる。わたしです。
そもそも理想が高すぎるのが原因だとは思うんだけども下げられないんだよなこれが。他者に誠実であろうとすればするほど自分の首を絞めちゃう。
他己評価にすべてを任せてしまえれば楽なんだけどそれもそれで「気を使わせている」「やはり死ぬべき」みたいなスイッチが入っちゃうのでだめだめで、結局わたしは私自身をダメ人間のままにしておきたいのかもなと思う。いやそんなこたねえんですけど、高すぎる理想と自分を比較して落ち込んでたらいつまでもこのままよな……
自己評価、「他者に比べて私は」というところに入り込んでしまうのですけど、その概念的「他者」は「色んな人のいいところをまとめた完璧超人」みたいな存在で、つまりAさんの賢さとBさんの優しさとCさんのコミュニケーション能力とみたいな、実在しない「他者」なのですよね。とはいえ「いやいやAさんにも欠点はあるし」みたいなことを考えると「へえ自分の欠点は差し置いて他人のあら捜しですか」みたいな判定が発生してまた自尊心がアレするというアレで。荒れ荒れで。
「Aさんと同程度に賢くBさんと同程度に優しくCさんと同程度にコミュニケーションが取れない限りわたしはわたしを認めない」みたいな無限地獄に入っちゃうの割とマジで苦しいのでなんとかしたい。でも「欠点を含めて私は私」と胸を張ることがどうしてもできない。たぶんそれが自尊感情で、まるまる欠落している部分なのだろうと思う。というか他者との差分で自分を認識してるのがもうおかしいっぽいんだよな……
不安障害の様相についてメモ書き
不安障害の様相について書いていた人がいたので私もなんか書こう
以下、特に何の診断もついていない(
人の死というものを認識してからずっとその不安に苛まれている。
生きている限りは大切な人を喪う可能性がずっとつきまとってくる
それは明日かもしれないし、今かもしれないし、
例えば私の友人が事故に遭って、
一分前に生きてた人が今も生きているという確たる根拠なんてなに
そのような曖昧な世界観で生きている。
「明日も生きている確約なんて誰にも無い」というのは(
私は私の未来に興味が無い。小説も映画もゲームも好きだけれど、
私にはいくつかの属性があり(二十代、アラサー、女性、SE、
私は彼らを憎んでいない。どちらかといえば愛している。
生きる目的はない。夢とか希望とか自分に対する期待とかもない。
死んだ方がいいと思いながらでも生きているのは、
かといって女性として結婚せず出産せず生きていくモデルケースみ
このままワークホッパーやってたらいつか部屋も借りられなくなる
言葉尻や表情、リアクション、
死んだ方がいいみたいなことを考えるなら休むべきだし病院に行く
たぶん何かしらは悪いんだべなと思うんだけど(
読んだ記事では不安の様相を「暗く深い穴の中にいるよう」と比喩していたのだけど、私はどっちかっていうと砂漠のど真ん中にいるように感じる。道はなく、どこにでも行けて、どこに行ってもなにもない。足が疲れていて、のどが渇いていて、太陽にじりじりと焼かれている。休める木陰はなく、砂漠の終わりも見えない。
日記 2019年10月17日
「キモいアニオタの血なんて輸血されたくない」
血の話がよくTLに流れてくる日だった。
そのうち血管に海水を注入する何かが流行ったりしそう。
美人有名人の血を買ってセルフ輸血てきなものはもうありそうだな
まあでもそのうち人工血液とか造れるようになって献血も不要にな
私は献血に行くと断られるので(