右の眼窩

薄暗くて狭いところ

不安障害の様相についてメモ書き

 不安障害の様相について書いていた人がいたので私もなんか書こうかなと思った。一昨日もちょっと愚痴ってたけど。
 以下、特に何の診断もついていない(SSRIとか試したけど特に気分が落ち着いたりはしなかった)(頓服のベンゾジアゼピンはお守り代わりに飲んでるけどプラセボ可能性もある……)人間の個人的な話ですので、診断ついてないファッションメンヘラは氏ね! 詐病! みたいな人はブラウザバックでよろしくおねがいします。

 人の死というものを認識してからずっとその不安に苛まれている。
 生きている限りは大切な人を喪う可能性がずっとつきまとってくる
 それは明日かもしれないし、今かもしれないし、何ならまだ知らないだけでもう死んじゃってる可能性もある。
 例えば私の友人が事故に遭って、スマホごとぐちゃぐちゃになって死んでしまった場合、友人の家族が私に連絡する手段は無い。
 一分前に生きてた人が今も生きているという確たる根拠なんてなにもない。だって人は一秒でも死ねる。
 そのような曖昧な世界観で生きている。

「明日も生きている確約なんて誰にも無い」というのは(少なくとも私の中では)真実だけれど、それじゃあそもそも生きていけないので、明日も明後日も来週も来月も来年も生きているという前提で、その前提があるふりをして生きている。来月遊ぶ約束だってする。来年の旅行の計画もする。未来のことを考えると泣きたくなって胸がぎゅうぎゅう痛んでくる仕事がらみで十年先までのキャリアパスの目標を立てさせられたときなど比喩でなく死にそうになった。窓から飛び降りたかった。

 私は私の未来に興味が無い。小説も映画もゲームも好きだけれど、そのために生きるには値しない。どちらかといえば生きること前提で苦痛を紛らわすための逃避先だ。そうして私は私を「いない方がいい」存在だと思っている。
 私にはいくつかの属性があり(二十代、アラサー、女性、SE、両親の娘、祖父母の孫、弟の姉、友人の友人、会社の構成員、その他)その属性に向けられるアノニマスな理解、想像、あるいは願望、期待、そういうものがどうしても苦痛でしかなく、そのアノニマスな期待に応えられる自信は無く、失望されるのが恐ろしい。裏切るのが怖い。そういうものはだいたい「普通の〇〇」から生えていて、その「普通」が私にはわからない。
 私は彼らを憎んでいない。どちらかといえば愛している。愛されているんだろうという認識もある。でもその愛情の対価を払っていない、払えないという感覚がずっとある。支払ってもらった愛情の分だけ何かを返さなくてはならないと思うのに、私は無能だ。何も返せないどころか、何を返せばいいのかすらわからない。盗んでいる、詐取している。だから死んだ方がいい。

 生きる目的はない。夢とか希望とか自分に対する期待とかもない。生きて達成する何かもきっとない。命を繋がず、何も作らず、年収が少ないから税金だって払う額より受ける恩恵の方が大きい。主観としても客観としても、収支が完全にマイナスだ。生きてたって得るものなんてないし失うだけなら死んだ方がいい。ハイコストハイリスクノーリターン。

 死んだ方がいいと思いながらでも生きているのは、そのアノニマスな期待を奪われるほどの悪人が私の周りにいるとは思えないからだ。娘に孫を期待して何が悪い? 彼らはそんなささやかな願望すら奪われるほどの悪人だろうか? でも私が生きてそれを達成することはきっとないんだろう。そこにたどり着くまでの難易度を横においても、妊娠出産とかホルモンバランス崩して首を吊る結果しか想像できない。首を吊るだけならまだいいけど我が子を殺したりしたら最悪だ。両親は昔から私に「普通でいいよ」と言い続けているけれど、その普通すら手が届かない。っていうか私の能力云々を脇に置いたとしても両親世代の普通がめっちゃ高いところにある。田舎の中古格安物件とはいえ三十一か二で庭付き戸建て買った人間の想像する「普通」とは……。
 かといって女性として結婚せず出産せず生きていくモデルケースみたいなのも特に無いし。私の周囲には年上の独身女性がいない。というか業種柄そもそも女性がいないんだけど。結婚出産あるいは華々しい成功みたいなモデルばっかりが目立って特に成功せず結婚もせずただサラリーマンとして生きていく道筋が無いように見える。もちろん普通に働いている限りそんな人が目立つことはないのだろうし、見えなくて当然だ。男性の同僚だって未婚か既婚かなんて知らないのだし。
 このままワークホッパーやってたらいつか部屋も借りられなくなるだろうからもう転職はしたくないんだけど、長くひとつの会社にいるとその期間に従って周囲が馴れ馴れしくなるのでどんどん無理になってしまう。親愛の所作なんて知らない。信頼のやり方なんて知らない。でも自分を信頼してくれない人を誰かが信頼することはない。だから神経をすり減らして親愛の所作、信頼の所作らしきものを真似しながら綱渡りをするしかない。長くひとつの会社にいるというのはそういうことだ。
 言葉尻や表情、リアクション、すべて正しいタイミングで正しい形で行えるように気を張り続けると疲れる。そうして得た好意や信頼は私の糧にはならない。嘘だ、全部嘘。

 死んだ方がいいみたいなことを考えるなら休むべきだし病院に行くべきだって思ってはいるんだけど、こういうことを病院では言えない。言ってどうする? みたいな感じがしちゃって言えない。それで世間話してSSRI10mgとか出されて特に効きもしないいつからか飲むのもやめて通院もしなくなってお酒に頼ってるんだからいけない。いけないのはわかる。でも喋れない。喋る速度で話をまとめることができないし、待合室で待っている人たちのことを考えると少しでも早く診察を終わらせなきゃみたいな気持ちになっちゃってますます話せない。っていうかそもそも精神科であってカウンセリングじゃないし。わからない。どうやって私の症状を把握してもらえばいい? っていうかこれ「症状」って言っていいものか?
 たぶん何かしらは悪いんだべなと思うんだけど(これが正常だとは思いたくない)私の頭で考えているとこれらはすべて現実の課題であり治療でなんとかなるものではないみたいな気がする。

 

 読んだ記事では不安の様相を「暗く深い穴の中にいるよう」と比喩していたのだけど、私はどっちかっていうと砂漠のど真ん中にいるように感じる。道はなく、どこにでも行けて、どこに行ってもなにもない。足が疲れていて、のどが渇いていて、太陽にじりじりと焼かれている。休める木陰はなく、砂漠の終わりも見えない。