右の眼窩

薄暗くて狭いところ

愛情とか恋愛とか

 冬場のMacBookは冷たい。アルミのボディがマジで冷たい。そのくせトラックパッドは手袋してたら操作できないし。概ね気に入っている端末だけれどこの点だけはどうしても肯定できない。
 そんなわけで執筆は全然はかどらないのだけどとにもかくにも何か書かなくてはという気持ちがあるのでブログを書く。

 私には眠る前に考え事をする癖がある。癖というか、考えないことが難しい。アリス式睡眠法みたいなことも試したのだけど、考えないことがあまりにも難しい。あと私の脳には映像を再生する機能がない。夢は見るのでたぶんまったくないわけではないのだけどものすごく弱いのだと思う。動画再生機能はない。静止画もいまいち。
 というわけで考え事は概ね文章である。最近は愛情というものについて考えた。

 愛情というのはどちらかが身を削るようにして与えるものではなく、抱き合えばお互いに温かいとかそういう種類のものではないだろうか。つまり、減ったり痛んだりするものではなく、ただそこにあるものというか。
 一方で恋愛とは相互的に自分の人権を削って差し出す甘ったるい人権侵害の承認では?とかも思ったりして若干矛盾したりもするのだけど、まあ、愛情とは恋愛の延長ではないのでそのへんの矛盾はかまわないのかもしれない。

 私はこと人権、人権というか人間同士の距離感というものについて人よりも敏感だ。敏感というか、パーソナルスペースが広いというか。だから社会的に定義された「普通の恋愛」みたいなものは嫌い。「普通の恋愛」には「好き」から「ハグ」「セックス」「結婚」などが雑に放り込まれている感じがあり、セット販売するんじゃねえよと思っている。福袋じゃないんだから。

 社会がそれを定義することは有用だ。なにしろ楽だし、個人間の感情やら距離感やら相互的な許可についていちいち鑑みることはコストが高すぎる。でもそれって好きな人に対してやることじゃないでしょうと思う。好きならもっとコストを裂け。社会的な定義なんて放り投げて相手が喜ぶことだけを考えろ。愛情に客観性は要らない。でも片方の主観だけでは成り立たない。そのためには綿密な会話と観察が必要になる。本来恋愛というのはものすごくコストが高いことなのだと私は思う。

 二十代も後半になってこのように考える人間なのでまあ恋愛はできない。歳を重ねるにつれ「福袋」の中身は増える。この年齢ならこれくらい望んで当然みたいなやつだ。社会性に乏しい人間なのでそのあたりセット販売しかしてませんと言われるとじゃあいいやとなってしまう。グーグルで検索して出てきたベストセラー商品を贈り合うような恋愛のどこに価値があるというのか。NPCじゃねえんだぞ。