右の眼窩

薄暗くて狭いところ

 わたくしが死ぬことに理由はありません。わたくしが死ぬことに、人様に誇れるような立派な絶望など何もないのです。お天道さまに背くような罪も、わたくしを殺しうるような凄絶な恋も、裏切りも、病も、何かの確執も、あるいは社会問題になりうるような酷使も、何もありません。ただ明日を生きるための希望が無くなってしまって、靴紐を結び直す元気が無くなったという、ただそれだけのことです。
 靴紐を結び直すということはわたくしには重労働です。屈み、苦手な蝶々結びを行い、また立ち上がらなくてはなりません。その上「前に進む」という意志がなくては到底できないことなのです。靴紐を結び直す必要があるのは前に進むためです。わたくしはそれに耐えられない。人前で屈み込み靴紐を結んで「わたくしには前進の意思がある」というようなふるまいをすることにもう耐えられないのです。もっとも、晩年はそれに耐えられないことを自覚していたので紐のあるような靴は履いておりませんでしたが。
 わたくしには何もありません。人様に理解されうるような絶望すらありません。わたくしは若く、手に職があり、収入があり、住処があり、家族があり、友人があります。恋人はありませんが、ほしいと思うこともありませんでしたのですこしも惨めではありません。いえ、嘘です。うまくやれないことがわかっていたのでほしいと思わなかっただけで、恋人をじょうずにやれるどこかの誰かには身を焼かれるような嫉妬を覚えます。理想の恋人について夢想するとき、そこには必ず「わたしではない恋人の恋人」がおります。わたくしはわたくしの存在があることを理想とは思えません。誰に好かれることも望みません。
 わたくしの人生は消極的な嘘にまみれていました。実際のところ、わたくしは何もわかってなどいなかったのです。周囲のひとびとの笑顔の意味がわからず、わたくしもまた何もわからないなりに笑顔を浮かべていましたので、その内側にどんな憎悪があるかと思うと恐ろしくてたまらず、むしろ石を投げてくる別の誰かの方がやさしいように思われたほどでした。人は鏡です。他人を憎悪しながら笑みを浮かべる人間は、憎悪を隠して笑みを浮かべる人間に囲まれることになるのです。もちろん妄想の話です。わたくしの周囲には真に良きひとびとが数え切れないほどいるのでしょう。けれど妄想と断じるだけの材料もありません。好きと言われてすらそれを信じることができないのは、好きと思っていない人に好きと言うような自分を他人に重ねるからです。
 わたくしは好むと好まざるとにかかわらず、目の前の人間には好意をあらわします。その方が攻撃される確率が下がるからです。攻撃されることに安心するくせに、攻撃されることをおそれたのです。わたくしの理性は「人には好かれておいた方がよい」と言います。わたくしの理性でない部分は「人の好意などろくなものではない」と言います。どちらもわたくしの本心です。人の好意からあらわれる残虐な行いを知っています。攻撃が親愛の所作として行われることも知っています。それをいちいち気に病んでいるわたくしが悪いのだということも、うっすら自覚しています。好意からなされるらしき攻撃をどう受け取っていいかがずっとわからなかったのです。見たところ彼らは笑っている、好意らしきものを示している、けれどこれは好意なのか悪意なのか。私はできれば相手の真意を受け取りたく思っていましたが、結局わからずじまいでした。
 わたくしはいろいろなものがわからなかった。あなたはズレていると何度も何度も言われて、ズレているところを自分で見つけることもできず、正しく振る舞うことも正しく受け取ることもなにもできなかったのです。受け取り損ねた好意がどれだけあるかと思うと身が冷えます。受け取りそこねた悪意がどれだけあるかと思うとつらくなります。きっと誰かに迷惑をかけ、そのことで怒られて、改善しなくてはならなかった場所が山ほどあるはずなのです。わたくしは誰かを傷つけたことすらきっと自覚していないのです。わたくしはきっと今も誰かを傷つけ続けているに違いないのです。でも誰もそれを教えてくれない、わたくしを糾弾してくれない。わたくしも誰かに傷つけられたとしてそれを誰にも言わないのだから当然です。みんな、隠しているだけに違いないのです。
 神の不在証明です。わかっています。見えない悪意は無いことにすればいいんです。糾弾されないならば何もしていないのだと開き直ればいいのです。それができるならきっと私は死なずに済んだのです。

--- 

 精神状態が悪すぎて自殺企図を起こしていた。
 
 いつぞや「送り火」を書いたときに自殺の手順は一通り考えていたので骨組みはあったのだけど、私の場合はサーバー解約したりドメイン解約したり廃業手続きしたりがあるので割と面倒臭そうで萎える。でもたぶん一ヶ月はかからない。
 電子レンジとかトースターとか椅子とか自分で運び出せるものは区の粗大ごみに。本は出張買取サービスを使う。服は捨てる。大した量じゃない。問題は自分で運び出せない粗大ごみ系で、冷蔵庫と洗濯機とベッドとでかい本棚。「送り火」作中では異性の友人に立ち会ってもらって「結婚で引っ越すので一人暮らし用の家電はもういりません」みたいな雰囲気を演出して回避したんだけどなにしろ私には異性の友人がいない。おっさんレンタルでもしてみようか。
 立ち退きの監査(?)とか前回引越し時は当日じゃなかった気がするので部屋の中のものを全部出したらホテルにしばらく住む。ウィークリーマンションでもいい。退去費用を払ってガス電気水道が止まれば私の根っこはなくなる。
 問題は私の死体だ。遺書があっても死体がなかったら行方不明扱いになるのだろうか。行方不明になってから死亡扱いになるまで七年はうざい。住民税とかどうなるんだろう。あるいは引っ越し手続きとして今の住所から籍を抜いて死ねば住民税って無くなるんだろうか?ホームレス諸氏はそのへんどうなっているんだろう?
 私は消えたいのだ。60kgもある肉体の処理を誰かに負担させたくはない。そうなると見つからないように死ぬのがベターなのだけど見つからなかったら見つからなかったで面倒なのかなと思うとうんざりする。遠くで死んだりするとそっちから死体を運んでこなくてはならないのだろうか。
 消えたい。いなくなりたい。本当は「最初からいなかった」ことになりたい。でも実際に私の肉体は存在していて、これは処理しなくてはならない。だったら最低限できるだけ他人に手間がかからないようにしたい。まあ、なかなか難しいのだろうけど、実際のところ私が生きて消費していく量は私が生きて生産する量よりはるかに多いはずなので(私は出産をするつもりはないし収入が微々たるものなので納税額も微々たるものだ)、死体の処理くらいの手間はこの先何十年も生きることに比べたら誤差みたいなものじゃないだろうか。私の存在はマイナスでしかない。
 別にマイナスでしかないから死ぬとかじゃない。人はそんなことで死ぬべきではない。生きたければどんなにマイナスでも生きればいいし、生きていいし、生きるべきなのだ。人の命は経済なんかよりずっと重い。そんなもの踏み散らして吹き飛ばして生きればいい。命の価値は何にも勝るものだ。
 生きたければね。生きたければ。私の持論は「自由に生き自由に死ねるようになったところが人権のゼロ地点」なのでさっさと自死を保障してほしい。私にだってエコとかリサイクルの精神はある。勝手に死なせて無駄に腐らせずに安楽死(?)を合法化して臓器提供だのなんだのできればいいのだ。肺はまあ、喫煙者なのでリサイクルできないと思うけど。あと目も近眼なのでだめだろうけど。健康な肉体が精神のために死に健康な精神が肉体のために死ぬの、あまりにも無駄。

 冒頭の遺書てきなものが妙な語り口なのはそうするとなんとなく作品っぽくなって自分から切り離すことができるからです。死にたい私が死なないためのライフハック