右の眼窩

薄暗くて狭いところ

私はこと子に泣いてほしかった

 江國香織さんの「流しのしたの骨」を読了してそろそろ数ヶ月、私なりに違和感の正体をこねこね考えていたのですけど、あれはたぶん「あの家族が破滅しなかったこと」に対する違和感なのだと思う。
 まっとうっぽい理屈をこねればチェーホフの銃みたいな、「仲の良い家族」を登場させたのにそれが崩壊しない、律のフィギュアの件もしま子ちゃんの子供の件もそよちゃんの離婚の件も何もかもが回収されないという点に感じる違和感。でもたぶん実際には私が「家族がめちゃくちゃに壊れる物語」を期待していただけなんじゃないかという気もする。
 私は家族というものが苦手だ。夫婦はお互いを選ぶ余地があるけれど、親と子はお互いを選べない。たぶん選ぼうとしたら選べる(誰と一緒に暮らし誰を親、あるいは子と呼ぶかなんて強制されるものではないと思う)んだけどだいたいはそれをしないで、血の繋がりだけで家族を家族としている。
 これは昔うちの親が言っていたことなのだけど、「自分の腹で育てて自分から生まれてきたのに自分と違うものだというのが難しい」とのことで、悪意どころか自覚すら無くても「家族なのだから」「価値観は似ている(同じである)」というものが存在する。それが苦手。
 うちの両親はシスヘテロで(結婚して出産していればだいたいシスヘテロだろうという気もするが例外を知っているので「普通の」とは言わない)、恋愛して結婚して子供を生んで家庭を作った人たちで、私は自分がシスヘテロだとは思っていなくて、どんなに取り繕ってもどんなに観察しても一番根っこのところが私を作ったはずの親と致命的に噛み合っていない。私はあの人達に作られたはずなのに、どうして、という気分がずっとある。
 だからこと子の家も崩壊してほしかった。話し合いが足りなくて、理解が足りなくて、お互いに対して平気で土足で踏み入るような発言が飛び交っていて、こんな家だから崩壊してくれるだろうと期待して、でも崩壊はしなかった。ラストで再び丸く閉じた家庭を見て強烈な嫌悪が起きたのはたぶんそのせいだ。
 私はドアを蹴らないし、私は人のクローゼットを勝手に開けたりしないし、私は人の持ち物を勝手に借りたりしないし、なのに得られなかった。私は私を家族の中の異物と感じ、逃げるように家を出て、表面的に仲良しの家族をやっていて、でもたぶんもうすぐそれができなくなる。二十六歳で未婚どころか恋人すらいない私は両親の目にどう映っているだろう。自分の性別に疑いを持っていて必ずしも異性を好きになるのではない、そのような生き物を「家族」はどう認識するだろう。
 たぶんこの感情の正体は嫉妬だ。明確な物語があり、主人公に目的があってそれを達成するようなハッピーエンドだったらこの種類の感情はわかない。これを退屈だと言える人に、これを温かい物語だと言える人に、しま子に、この家族に身を引き裂かれるような強い嫉妬をおぼえたのだと思う