右の眼窩

薄暗くて狭いところ

日記 六月十八日〜二十八日

 梅と氷砂糖を勝ってきて瓶に詰め、ここから一年また生きるぞという強い意志を込めて40%以上のアルコールを部屋にあるだけ注ぎ込んだ。ジンとウォッカとウィスキーがあった。電気ブランParaisoはさすがに入れなかった。しかし買ってきた瓶が必要以上に大きかったらしく、結構すきまが空いてしまった。梅と砂糖と酒を追加すべきか否か。
 
六月十八日
 新仮名遣いにおいて連濁以外で「づ」が使われる場面ってたぶん無いんだけどどうして未だに「づつ」とか「いづれ」とかが生き残っているのかしら。わざと正仮名を使っているとかいうふうにも見えないのだけど。
 
六月十九日
 今朝見た夢。ひよこサイズの鴨みたいな水鳥がわたしの足の上をぺたぺた歩いている夢。薄い水かきとささやかな体重が心地よかった。意味はよくわからない。
 
六月二十日
 そもそも私の性自認がきわめて薄いという話が前提にはなるんだけど世の中男性と女性をまったく別の生き物として扱っているような気がして不思議だ。同じ人間だと主張するいわゆるフェミニスト方々も「女性は」「男性は」という主語を平気で使う。わからない。
 
六月二十五日
 うつくしい日曜日の午後に仕事にまつわる小説なんて書いたら芋づる式にいろいろなことを思い出してしまい、丸一日気分が悪かった。でもアレ系は複雑な事情が複雑に巡っているのだろうから、代田ひとりの視点から書くというのが実はかなり理不尽なつくりなのだ。まあ、「周囲の人間を美少女と思い込む」という設定の手前、一人称以外にはできないんだけど。
 
六月二十六日
 信頼できないと信頼されないって割と無限地獄で、自分に対する信頼の根っこをぐずぐずに毀された人間は他人を信頼する方法もわからず信頼に応えるやりかたもわからず期待に背くことが恐ろしく変な嘘をついて信頼を傷つけて後ろ足で砂かけて逃げるみたいなことを繰り返してしまう。信頼したいしされたいのに、喉から手が出るほどそれがほしくてたまらないのに、実際に手に入ってすら認識できない。そうして体だけがおとなになってしまうと、いまさら誰も助けてはくれないのだ。
 
六月二十七日
 箱庭療法としての創作は別に悪くないと思うのだけどそれを人前に晒す度胸はいまいち無い。疵を晒すのはそんなに怖くない。疵を塞ぐその手順を詳らかにするのがおそろしいだけだ。疵を塞ぐことでそれが無いふりはできるけど、傷を塞いだところを見せてしまったら、もう疵がないふりはできない。どんなに取り繕っても「隠しているだけ」だ。
 
六月二十八日
 猫のうんこを食べる夢を見た。口の中があまりにも不機嫌な朝である。
 
「死ぬほど苦しかったなら逃げればよかったのに」などと言う人間、実際に逃げる人には石を投げるだろう。なぜなら「死ぬほど苦しかった」ということは死ぬ以外で証明されないからだ。彼らに石を投げ返すことを躊躇ってはいけない。「死ぬほど苦しいなら」なんて無視しろ。いつでも逃げればいいんだ。自分の未来が見える場所へ。