右の眼窩

薄暗くて狭いところ

トルストイはアンナ・カレーニナに曰く

 私の脳内には常に大量の情報と文章とが飛び交っている。その多くはぱっと浮かんではぱっと消え、一秒もすれば思い出すことができない。仕事中は言語野が退屈しているのか、そのようなことが常に発生する。

 仕事に詰まると、その思いつきを文章にまとめる。例えば以下のようなこと。

 トルストイアンナ・カレーニナに曰く、「幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はいずれもとりどりに不幸である」。私は思うのだけど、おそらくは考え方が逆だ。幸福とは社会的に定義された形式のことであり、それをはみ出たものを不幸と呼ぶ。つまり幸福な家庭が似たり寄ったりなのではなく、似たり寄ったりの家庭を指して幸福と言っているだけである。もっとも、トルストイと語り合ったわけではないので真に考え方が逆だったのかは知りようもない。
 社会的な幸福の定義とはつまり、個人の希求を社会に向けさせようとする欺瞞である。何しろ幸福とは本来、脳内の信号の名前でしかないからだ。不幸ではないことを幸福だと言うのなら、全人類の幸福は全人類の死滅によって簡単に成し遂げられる。
 もちろん単なる理論値だ。遺伝子の乗り物としての私たち生物には死への恐怖がアプリオリに組み込まれていて、だから私たちは今日も欺瞞の世界を生きている。自分の脳で解釈した内的世界を現実だと思い込んだまま。社会に定義された幸福という定形を心から希求していると思い込んだまま。
 働くのはお金を稼ぐため。お金を稼ぐのは生活のためと、欲しいものを買うため。美味しいものを食べるため。美味しいものを食べたいのはその向こうにある感情がほしいから。恋人がほしいのはその向こうにある感情がほしいから。遊びたいのも旅行がしたいのもすべては「その向こうにある感情」がほしいから。
 だから、個人レベルのミクロな希求はクオリアに帰属する。
 美味しいものを食べるのも、きれいな景色を見るのも、何かを買うのも、恋人を作るのも、最終的にはただ「幸福」の電気信号を得るためでしかない。そんなものは脳に電極でも刺せばいい。あるいは麻薬とか。
 それからこう書く。
「私はそうは思わないかな」
 そうすると「次」が発生してくる。名前もない、まだキャラクターですらない「彼女」が語り始める。
「死が最大幸福ってところは保留ね保留。死んだことないし否定できない。そこじゃなくて、最終的に電気信号だけで幸福を感じ取れるってところ」
「違う?」
「だって、飽きるよ。私たちのクオリアは単純な幸福だけでは満足しない。私はラーメンが好きだけど、毎日同じもの食べたら飽きる。別の刺激がほしいし、その刺激はたぶん個々人が選んで勝ち取るのが一番コストが低い」
「あー……? 要するに、幸福の信号は単一ではないという話?」
「そうそう。言葉というフィルタをかけると解像度が下がって『幸福』に収斂しちゃうけど、その内実はもっとアナログだと思う」
「一理ある」
「でしょ」
「でもつまんない。言葉を使って思考している限り、その向こうのアナログな信号には言及しようがない」
「まあね。もしかしたらマイナスの信号と組み合わせることで案外サクッと解決できるかもしれないけど」
「マイナスの信号って、苦痛とか」
「そう。辛味って基本は痛覚じゃん? でもカレーはトータルでおいしいわけよ。ストレスがスパイスになることもあるわけ。カレーだけに」
「なるほど、カレーだけに」
 カレーの例えはアンナ・カレーニナと引っ掛けたのだろうかと思ったのだけど、違ったら恥ずかしいから言わなかった。

   書いてるうちに思考はねじまがり、また新しい視点を思いつく。私から発生したはずの「彼女」は、書き始めるまで私の考えになかったことを喋りだす。面白い現象だなあといつも思う。

 

 ところで仕事のアレのアレはほんとどうしましょうね……