右の眼窩

薄暗くて狭いところ

人間を上手にやれない

 昔からよくわからない言葉がいくつかある。とりわけ困るのが「もったいない」と「恥ずかしい」だ。他のいくつかは「ケースバイケース」とか「個人差」みたいなもので吸収されることが多いが、もったいないと恥ずかしいは個人差に収斂しないっぽい。

 なにかをやらかしてしまったとき、怒られるかもと身を縮めることはある。でも恥じることはあまりない。申し訳ないと恥じ入ることはある。たとえば買った商品をレジにそのまま置き忘れて店員さんに追いかけられるときとか(割とよくある)

 もったいないは感覚というより基準、ケースを網羅する形で認識してはいる。こういう場合はもったいないのだ、という理解。方便としては使うけど方便の粋を出ない言葉。たとえば部屋の明かりをつけたままで仕事に行ってしまったときなどおそらく「もったいない」のだろうが、私はそれよりも「電球さんを無駄に働かせてしまった、申し訳ない、疲れただろう」などの感情が先立つ。無駄働きは疲れるし虚しい。健気に明かりをともしたまま家主の帰りを待っていたのかと思うと申し訳なくなる。

 すこし前に「小学生の夏休みオフ会」なるものの話を見て、楽しそうだなと思った。でもそれは行動行為が楽しそうなのではなく、参加した人たちが楽しかっただろうなというものだ。私がやったらたぶんただ疲れる。キャンプがだめとかアウトドアがだめとかじゃなく人間がだめ。大勢(この場合は三人以上の集合を指す)で楽しく遊ぶみたいなのに憧れる気持ちはずっとあるけどその機能は私にはない。基本的に四方八方気ばっかり使っているくせに根本的な協調性が欠けているので自分も周囲も疲れてしまってその意識があるのでまったく楽しめない。楽しそうに振る舞うのも疲れる。

 人と同じ感情を持てなくてはいけないと影に日向に教えられた期間が長すぎていくらそれを解毒しようとしてもさっぱりどうにもならない。人と同じ感情を持っているように見えるか、そればっかりを気にして自分の感情をないがしろにして、そのくせ他人と同じに振る舞うのはちいっともうまくならない。