右の眼窩

薄暗くて狭いところ

 第三者の評価など気にする必要はない。尤もだ。しかしそれは「まだ捨てきっていない人々」への寿ぎであると同時に、「もう捨ててしまった人々」への呪いにもなりうる。手元に残っているのは何もかも捨ててしまった空っぽの自分だけで、今更「気にしなくてよかったのに」などと言われても、かつて好きだったものへの情熱は戻ってこない。呼び起こされるのは捨ててしまったことに対する後悔と罪悪感だけ気にしなくていいことを気にしてしまった弱さを苛む感情だけだ。子供っぽいから。似合わないから。流行ってないから。理解されないから。捨てる理由はいくらでもあって、ひとりでそれらと戦えるほど強くもない。同じように怒りを捨て、悲しみを捨て、喜びが増えるわけでもなく、残ったのは自分自身に対する諦めだけ。誰かに認められる自分になりたいという――認められなければ生きていけないという、強烈な渇望だけ。認められたければ認められるに足る何かを成さなくてはいけない。何かを成さなければ認めてもらえない。それでも、「好きを突き詰めた人」にはかなわない。結局のところ、欲求こそが人の力だ。何も望まないならば生きている意味がない。何かを求め、満たされずに乾き、それでも求め続ける力、それこそが生命の源なのだろうと思う。死にたい。
 もう一度なにかに夢中になってみたいと思って様々のものに手を付けてみるものの、結局やることといえばSNSで実況するなどの「夢中になってますアピール」だけだ。「楽しい」と言って誰かに「楽しいんだね」と認めてもらわなければ自分が楽しんでいることすら知覚できない。知覚できないというか、たぶん、楽しんでいると思い込みたいだけだ。ゲームはいい。すべきことが明確だから。映画はいい。途中で止めたりできないから。途中で止めると二度と見ないのでネット配信とかはだめだ。開始から二十分くらい見てそのままの映画が何本もある。集中力が無い。人間嫌いのくせに誰かが見張っていてくれないと何かを楽しむこともできない。休日なんかゲームでもしてないと何時間でも眠ってしまう。眠りすぎて頭痛はするし悪夢は見るし、でも起きてたら起きてたで近隣部屋の物音とかにいちいちビクつく羽目になるし。階段を登ってくる足音とかが聞こえるとそれだけで心拍が120まで上がる。素面では恐ろしくてとても生きていられない。

生きることそのものが酔狂だ。好きでなければやっていられない。