右の眼窩

薄暗くて狭いところ

2019年05月29日

 唐突に思い出したので書く。
 ここ何年か、私の中にはLGBT差別みたいなものがあった。「みたいなもの」とするのは攻撃の意図を含まないから。ただ単に、「なぜカミングアウトするのだろう?」「なぜ理解されたいのだろう?」という疑問がずっとあった。
 もちろん法的不利はわかる。トイレの利用が苦痛だというのもまあ、わかる。潔癖症の延長くらいの理解しかしていないけれど。でも人に理解されたいというのが全然わからなかった。他人の評価で性別やら何やらが変わるわけないんだから、放っといていいじゃんと思ったのだ。
 違うんだ。違ったんだ。大切な人には理解されたいんだ。そうして十年くらい前には私も同じことを考えたんだ。知ってほしい、受け入れてほしいと思ったことがあったんだ。忘れてた。いや、忘れてたわけではない。冗談と一笑に付して受け入れるどころか聞く耳すら持ってもらえなかったことを恨んではいた。でもその前を忘れていた。理解されたいと願ったことを完全に忘れ去っていた。びっくりした。
 あのへんで一度折れてからこっち、私はわたしの言葉で私の本当を語るということをほぼやってない。少なくとも対面ではまったくやっていない。嘘は本当らしく、本当のことは嘘らしく、のらりくらり、傷つかないように傷つけないように、深入りしないしさせない、そのような正しいおとなになったのだった。
 
 理解されたかった。当時の恋人とはもう別れてしまったし、それ以外に私が理解されたいことなど何もないから、今はもう理解はいらない。