右の眼窩

薄暗くて狭いところ

努力に陥る怠惰

 僕らはいつでも人生のチートコードを探していて、同時に「そんなもんはない」という理性の声も聞こえているから簡単に努力教に引っかかってしまう。努力というのは指向性や手段について個人ごとに検討しなくては結果なんて出ないものだし(間違ったフォームでいくら素振りを行っても待っているのは上達ではなく故障である)万人に向けて語られる特定個人の手段やらそんなのは基本的にはあんまり役に立たない。ちょっと前に有名な小説家の言葉として「まずは体力をつけなければならない。走り込みもせずにフォームを身に着けようとしても意味がない」というようなものがツイッター側に流れてきたのだけど、あれは筋が悪い。なぜスポーツを知らないのにスポーツで喩えたのか疑問。別にどうでもいいんだけど。そういうのを考えないで、とにかく苦しければよいのだという方向に行ってしまう人がまあまあいる。努力すればいい、自分は楽なんてしていないという思考停止は楽以外の何物でもないのだけどそこからは目をそらす。だって実際に成功した人がいるのだしこれは正しいはずだというやつだ。人間千差万別なので百聞は一見にしかず理論は実績にしかずなんていう考えはそこそこの打率でクソである。
 尤も、大抵の人はそれで故障するまでやれるだけの気概を持ち合わせてはいない。努力したという満足を得て、そのうち忘れ去る。それでよいのである。成功者が語る成功の秘訣なんて本はいくらでもあり、それらはぱっとブームを起こして三ヶ月で忘れられるくらいでちょうどいいのだ。間違った努力は怠惰にも劣るというのが個人の(これもあくまで個人の)考えである。心拍数も関節や筋肉の状態も何も気にせずフルマラソンを遮二無二走るような、そういう盲目な努力ならばしない方がよい。どんなに考えて気を配って努力したところで思い通りの結果が出るとは限らないのだということから逃げたい彼らにとって、ああいうのは甘い蜜なんだろうと思う。
 
 私の嫌いな言葉は一番が「努力」で二番目が「ガンバル」だ。もちろん、人生斜に構えてたら何も楽しめないままになるというのも重々わかってはいる。